VOL.2 「メジロマックイーンの血は、
2010年7月15日http://hospitalsnavi.com/
VOL.2 「メジロマックイーンの血は、ゆっくりと花開く」
死んだ種牡馬の仔は走る、とは昔からよく言われている格言のようなものだが、では過去にどんな例があっただろうかとあらためて考えてみると、思ったよりも多くの事例を並べたてられないことに気づかされる
誰もがまず最初に頭に思い浮かべるのは、2002年に相次いで急逝したエンドスウィープとエルコンドルパサーの例かもしれない。エンドスウィープ産駒のG1初勝利はスイープトウショウによる2004年秋華賞で、これを皮切りに数年のあいだにラインクラフト、アドマイヤムーンといったG1馬が相次いで誕生している。エルコンドルパサーの場合も同様で、2006年秋にソングオブウインドが菊花賞を勝つと、その1ヵ月後にはアロンダイトがジャパンCダートを、さらに2ヵ月後にはヴァーミリアンが川崎記念を勝ち、あらためてその早すぎた死が惜しまれた。が、じつは両馬とも種付けを行っていたのはわずか3年間(エンドスウィープの場合はその前に海外で5年間供用)でしかなく、(国内の)初年度世代がデビューする前にはすでに死亡してしまっていたのだ。要するに「ある種牡馬の産駒が、その種牡馬が死んだら突然走り出した」のではなく、たんに能力の高い種牡馬が早逝したということでしかない。そう考えると、格言が本来訴えたい内容とは、ちょっと方向の異なる事例のような気がしてくる。
1998年の皐月賞、菊花賞を制したセイウンスカイの父シェリフズスターのケースは、そういう意味では格言の本来の意味に近い、最も新しい例なのかもしれない。そこまでの3世代で2勝目を上げた産駒はゼロと、ほぼ壊滅的と言っていいくらい結果を出していなかった種牡馬から突然出現したクラシックホース。おまけにそのセイウンスカイと同世代にはもう1頭、3歳秋から急激に力をつけてオープン入りしたセイウンエリアという馬もいて、1999年の日経賞ではなんとセイウンスカイの2着に入っている。この時点で現役で走っていたシェリフズスター産駒はわずか5頭で、そのうちの2頭がG2でワンツーしたのだから、注目を集めないはずがない。
だが、時すでに遅し。シェリフズスターはセイウンスカイが皐月賞を制するずっと前に、すでに廃用になり、行き先すら不明という状況になっていたのだった。
廃用とは少し違うが、ザグレブも似たケースだ。愛ダービーを制し、引退後日本で種牡馬入りしたが結果が出ず、5年間の供用後、2002年にアイルランドへ里帰りのかたちで売却。ところが、その直後の2003年暮れに朝日杯フューチュリティSをコスモサンビームが、ラジオたんぱ杯2歳Sをコスモバルクが相次いで勝ってしまった。他には2勝目を挙げた馬ですら5世代で2頭がいるのみなのだから、この意地の悪いタイミングはまさに「死んだ(わけではないが)種牡馬の仔は走る」という格言でしか表現できないと言えるだろう。
たぶんこの格言が指しているのは、耳慣れないマイナー種牡馬や、すっかり活力が衰え、評価も下がりきっていた老齢の種牡馬から突然、活躍馬が出て、生産者にとっては翌年の種付けにかかわるかもしれない問題でもあり急いで調べてみたら、すでにその種牡馬は死亡したり、もしくは廃用になったりしたあとだった、というケースのことなのだろう。その根底には、種付けから結果が出るまで最低3年はかかるという、競走馬生産では避けては通れないタイムラグへの苛立ちが隠されているような気がする。同時に、虚像ともいえる評判や雰囲気に踊らされていると、気がついたときには本当に守らなければいけないものを失っているものだという、自戒を込めた教訓のようなものも含まれているのではないだろうか。だがもちろん、本当に大事なもの、本当に守らなければいけないものとは、いつだってあとになってからわかるものなのだ。
2006年4月に死亡したメジロマックイーンの仔のホクトスルタンが、2008年春の天皇賞で4着と善戦し、次走の目黒記念で順当勝ちとも言える強さで重賞初制覇を飾ったとき、きっと多くのファンの頭の中にはこの格言が浮かんだに違いない。その数ヶ月前の中山牝馬Sではヤマニンメルベイユが6歳にして初めての重賞勝ちを達成しており、さらに同馬が8月のクイーンSで重賞2勝目を挙げるに至って、その思いは確信のようなものへと成長したのではないだろうか。「死んだ種牡馬の仔は走る」というのは、やっぱり本当だったんだ、と。
メジロマックイーンが種牡馬生活に入ったのは1994年。折しも3年前に供用を開始したサンデーサイレンスの初年度産駒がデビューしたのと同じ年になる。日本競馬全体がサンデーサイレンス的な「切れ」と「スピード」と「仕上がりの早さ」を強く求めていくここからの10年は、「底力」と「スタミナ」、そして「成長力」で勝負するメジロマックイーンにとっては苦しい戦いを強いられた10年間だったと言える。だがファンは、マックイーンならそんな「新時代」をもタフに生き抜いてくれるのではないか、いや生き残ってほしいという願いにも似た気持ちを抱きながら、その戦いを見守ってきた。かく言う僕もその一人だったのだが。
メジロマックイーン産駒の勢いは、1998年にエイダイクイン、2001年にタイムフェアレディがそれぞれクイーンC、フラワーCという3歳牝馬の春の重賞を勝った程度で、徐々に先細っていっているように見えた。僕たちが望んでいるような、長距離のG1で活躍する牡馬など、ほとんど出てくる気配はなかった。ホクトスルタンが登場するまで、メジロマックイーンの牡馬で平地のG1に出走したのは、エスパシオが1998年ダービー16着、シェイクマイハートが2003年NHKマイルC14着という例があるだけだったのだ。
そして2002年、ついにサンデーサイレンスがいなくなる。当然、同じだけ歳をとってきたメジロマックイーンも15歳となっていた。もちろん、世間の興味はサンデーの後継種牡馬争い一色で、雌伏の時を過ごしてきたマックイーンの逆襲の可能性を考える者など、もはやいなくなっていた。僕も含めて。
ホクトスルタンが今年の春の天皇賞に出走する直前、メジロアサマからメジロティターン、メジロマックイーンと続いてきた親子3代天皇賞制覇の大記録が更新されるかもしれないというのは、マスコミを賑わせた小さくない話題の一つだった。だが、僕が種牡馬としてのメジロマックイーンにあらためて注目する気になったのはそのときではなかった。きっかけはそれから3ヵ月後、ドリームジャーニーが小倉記念で復活勝利を挙げ、さらにその1ヵ月後の朝日チャレンジCで重賞連勝を決めたときだった。最後の直線で叩き合い、ねじ伏せた相手が、良血を絵に描いたようなサンデーサイレンス産駒のキャプテンベガだったことも大きかったかもしれない。ともかく、何というか、ピンときたのだ。この勢いは、もしかしてドリームジャーニーの母父に入ったメジロマックイーンの血の成せるわざなのではないか? と。
ほとんど反射的に、僕はその週の全レースの出走表から母父メジロマックイーンの馬を片っ端から探し出す作業に取りかかっていた。その週は、ドリームジャーニーを含めて6頭が出走し、土曜札幌の第1レースでメジロマリアンが2着に入っていた。6頭で1
VOL.2 「メジロマックイーンの血は、ゆっくりと花開く」
死んだ種牡馬の仔は走る、とは昔からよく言われている格言のようなものだが、では過去にどんな例があっただろうかとあらためて考えてみると、思ったよりも多くの事例を並べたてられないことに気づかされる
誰もがまず最初に頭に思い浮かべるのは、2002年に相次いで急逝したエンドスウィープとエルコンドルパサーの例かもしれない。エンドスウィープ産駒のG1初勝利はスイープトウショウによる2004年秋華賞で、これを皮切りに数年のあいだにラインクラフト、アドマイヤムーンといったG1馬が相次いで誕生している。エルコンドルパサーの場合も同様で、2006年秋にソングオブウインドが菊花賞を勝つと、その1ヵ月後にはアロンダイトがジャパンCダートを、さらに2ヵ月後にはヴァーミリアンが川崎記念を勝ち、あらためてその早すぎた死が惜しまれた。が、じつは両馬とも種付けを行っていたのはわずか3年間(エンドスウィープの場合はその前に海外で5年間供用)でしかなく、(国内の)初年度世代がデビューする前にはすでに死亡してしまっていたのだ。要するに「ある種牡馬の産駒が、その種牡馬が死んだら突然走り出した」のではなく、たんに能力の高い種牡馬が早逝したということでしかない。そう考えると、格言が本来訴えたい内容とは、ちょっと方向の異なる事例のような気がしてくる。
1998年の皐月賞、菊花賞を制したセイウンスカイの父シェリフズスターのケースは、そういう意味では格言の本来の意味に近い、最も新しい例なのかもしれない。そこまでの3世代で2勝目を上げた産駒はゼロと、ほぼ壊滅的と言っていいくらい結果を出していなかった種牡馬から突然出現したクラシックホース。おまけにそのセイウンスカイと同世代にはもう1頭、3歳秋から急激に力をつけてオープン入りしたセイウンエリアという馬もいて、1999年の日経賞ではなんとセイウンスカイの2着に入っている。この時点で現役で走っていたシェリフズスター産駒はわずか5頭で、そのうちの2頭がG2でワンツーしたのだから、注目を集めないはずがない。
だが、時すでに遅し。シェリフズスターはセイウンスカイが皐月賞を制するずっと前に、すでに廃用になり、行き先すら不明という状況になっていたのだった。
廃用とは少し違うが、ザグレブも似たケースだ。愛ダービーを制し、引退後日本で種牡馬入りしたが結果が出ず、5年間の供用後、2002年にアイルランドへ里帰りのかたちで売却。ところが、その直後の2003年暮れに朝日杯フューチュリティSをコスモサンビームが、ラジオたんぱ杯2歳Sをコスモバルクが相次いで勝ってしまった。他には2勝目を挙げた馬ですら5世代で2頭がいるのみなのだから、この意地の悪いタイミングはまさに「死んだ(わけではないが)種牡馬の仔は走る」という格言でしか表現できないと言えるだろう。
たぶんこの格言が指しているのは、耳慣れないマイナー種牡馬や、すっかり活力が衰え、評価も下がりきっていた老齢の種牡馬から突然、活躍馬が出て、生産者にとっては翌年の種付けにかかわるかもしれない問題でもあり急いで調べてみたら、すでにその種牡馬は死亡したり、もしくは廃用になったりしたあとだった、というケースのことなのだろう。その根底には、種付けから結果が出るまで最低3年はかかるという、競走馬生産では避けては通れないタイムラグへの苛立ちが隠されているような気がする。同時に、虚像ともいえる評判や雰囲気に踊らされていると、気がついたときには本当に守らなければいけないものを失っているものだという、自戒を込めた教訓のようなものも含まれているのではないだろうか。だがもちろん、本当に大事なもの、本当に守らなければいけないものとは、いつだってあとになってからわかるものなのだ。
2006年4月に死亡したメジロマックイーンの仔のホクトスルタンが、2008年春の天皇賞で4着と善戦し、次走の目黒記念で順当勝ちとも言える強さで重賞初制覇を飾ったとき、きっと多くのファンの頭の中にはこの格言が浮かんだに違いない。その数ヶ月前の中山牝馬Sではヤマニンメルベイユが6歳にして初めての重賞勝ちを達成しており、さらに同馬が8月のクイーンSで重賞2勝目を挙げるに至って、その思いは確信のようなものへと成長したのではないだろうか。「死んだ種牡馬の仔は走る」というのは、やっぱり本当だったんだ、と。
メジロマックイーンが種牡馬生活に入ったのは1994年。折しも3年前に供用を開始したサンデーサイレンスの初年度産駒がデビューしたのと同じ年になる。日本競馬全体がサンデーサイレンス的な「切れ」と「スピード」と「仕上がりの早さ」を強く求めていくここからの10年は、「底力」と「スタミナ」、そして「成長力」で勝負するメジロマックイーンにとっては苦しい戦いを強いられた10年間だったと言える。だがファンは、マックイーンならそんな「新時代」をもタフに生き抜いてくれるのではないか、いや生き残ってほしいという願いにも似た気持ちを抱きながら、その戦いを見守ってきた。かく言う僕もその一人だったのだが。
メジロマックイーン産駒の勢いは、1998年にエイダイクイン、2001年にタイムフェアレディがそれぞれクイーンC、フラワーCという3歳牝馬の春の重賞を勝った程度で、徐々に先細っていっているように見えた。僕たちが望んでいるような、長距離のG1で活躍する牡馬など、ほとんど出てくる気配はなかった。ホクトスルタンが登場するまで、メジロマックイーンの牡馬で平地のG1に出走したのは、エスパシオが1998年ダービー16着、シェイクマイハートが2003年NHKマイルC14着という例があるだけだったのだ。
そして2002年、ついにサンデーサイレンスがいなくなる。当然、同じだけ歳をとってきたメジロマックイーンも15歳となっていた。もちろん、世間の興味はサンデーの後継種牡馬争い一色で、雌伏の時を過ごしてきたマックイーンの逆襲の可能性を考える者など、もはやいなくなっていた。僕も含めて。
ホクトスルタンが今年の春の天皇賞に出走する直前、メジロアサマからメジロティターン、メジロマックイーンと続いてきた親子3代天皇賞制覇の大記録が更新されるかもしれないというのは、マスコミを賑わせた小さくない話題の一つだった。だが、僕が種牡馬としてのメジロマックイーンにあらためて注目する気になったのはそのときではなかった。きっかけはそれから3ヵ月後、ドリームジャーニーが小倉記念で復活勝利を挙げ、さらにその1ヵ月後の朝日チャレンジCで重賞連勝を決めたときだった。最後の直線で叩き合い、ねじ伏せた相手が、良血を絵に描いたようなサンデーサイレンス産駒のキャプテンベガだったことも大きかったかもしれない。ともかく、何というか、ピンときたのだ。この勢いは、もしかしてドリームジャーニーの母父に入ったメジロマックイーンの血の成せるわざなのではないか? と。
ほとんど反射的に、僕はその週の全レースの出走表から母父メジロマックイーンの馬を片っ端から探し出す作業に取りかかっていた。その週は、ドリームジャーニーを含めて6頭が出走し、土曜札幌の第1レースでメジロマリアンが2着に入っていた。6頭で1
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